髪型の歴史
古墳時代・大和時代
古墳時代・大和時代には、総角(みづら、美豆良)と呼ばれる髪型が男性の間で行われた。髪を二つに分け、それぞれを耳の横で上下に丸める髪型である。古墳時代の女性は江戸時代の島田髷に似た髪形だった。奈良時代の女性は中国風の高髻(こうけい)、双髻(そうけい)を結った。(wikiペディアより)
平安時代 – 安土桃山時代
平安時代の皇族、貴族たちは、男性は髻(もとどり)を結った上に冠を被り、女性は垂髪(たらしがみ/すべしがみ/すいはつ)といわれるただ簡素に髪を下ろしたスタイルをしていた。女性の髪は黒いほど、また長いほど美人とされていた。髪を耳に挟むことは、品のないこととされ「耳挟み」といって嫌われた。子供時代は振分髪(あるいは尼そぎ)といわれる髪をそのまま下ろす髪型や、男児ではみづらに結う事もあった。
12歳 – 16歳頃になると、男は髪を結って烏帽子や冠をかぶる初冠(ういかぶり)(元服)の儀、女は裳着の儀と呼ばれる儀式で裳着を身につけると同時に、髪上げを行い、男女共お歯黒を付け、引眉した。これらの儀式は、それぞれ成人の儀式という意味合いがあった。平安末期以降は武家、及び、やや裕福な庶民にも広がった。皇族・貴族にあっては、この習慣は明治に入るまで続いた。庶民の男性は前髪を後ろに撫で付けて、髪を後ろで引き結ぶか髷を作った総髪という髪型をしていた。(wikiペディアより)
江戸時代
男性の髪型はひっつめで、後の銀杏髷に近い形が主流。
女性の髪型は立兵庫、元禄島田、元禄勝山等、細長い髪型が主流で、髱も鴎髱、鶺鴒髱等、後ろに突き出す形が流行した。
明治以降
明治時代以降、女学生の髪型として三つ編みが流行し、生徒の髪型として三つ編みを指定していた学校は多く、現代でもその伝統を引き継いでいる学校も存在する。